道路から見える看板。

春先だというのに,植物に散々絡まれる石碑。

「徳川四天王 榊原康政生誕之地」とある。知識が無いので,ほうほうソウデスカとしか言えないのだが。
[参照] Wikipedia 榊原康政の項
豊田市教育委員会の案内看板があった。

上野城址(上野上村城址)
応仁の頃(一四六七)伊勢貞親の被官であった戸田弾正左衛門宗光による築城と伝えられている。城の周囲には、自然地形を利用した堀が巡り、南西に本丸、北東に二の丸が配されている。
宗光は文明七年(一四七五)に次男の家光を残して渥美郡大津に移り、田原城を築いて田原城主となった。その後家光も程なくして田原に移っている。
明応二年(一四九三)上野城に在った阿部孫次郎は寺部の鈴木氏、挙母の中條氏、八草の那須氏、伊保の三宅氏等と連合して松平親忠と井田野(岡崎市)に戦い、破れて、松平氏に服属した。その後この城には松平内膳正信定と、その子清定が在城した。
清定は天文十四年(一五四五)松平広忠と戦い、同十五年に降伏して桜井(安城市)に蟄居の身となり、代って、酒井将監忠尚が入城する。しかし、永禄六年(一五六三)三河一向一揆が起こると忠尚は一揆方に見方したため、隣松寺に本陣を敷いた家康によって攻められることになる。永禄八年、一揆が鎮まって忠尚は駿河に逃れ、上野城は落城した。落城後は家康により、上野七人衆と呼ばれる在藩衆が置かれた。
豊田市教育委員会
知ってる地名で戦国語られると燃えるな。とはいえやっぱり人名などには疎いので,Wikipediaに丸投げ。とりあえず。
[参照]
・伊勢貞親
・戸田弾正左衛門宗光
「次男の家光」とあるけども,宗光の次男じゃなくて戸田家の次男(つまり宗光の弟)ってことみたいだな,Wikipediaの記述に従うと。家光単独の項は無いので飛ばして,
・田原城
田原城も,本丸跡に神社があるんだね(上野城址には,上郷護国神社と城山稲荷社がある)。
・阿部孫次郎も城主のわりに項目が無いな。そもそも上野城の項が無いんだけどな。
・松平親忠
松平親忠って二人居たんだなー。多分上のリンク先の方であってる。多分だけど。
・松平内膳正信定も項目なし。清康(家康の祖父)の叔父にあたる人のようだ。
・信定の子,清定も項目なし。清康のいとこか。
・松平広忠
広忠は家康のお父さん。何か自分の中では影薄いな。家康方贔屓のせいか,たてついた形の信定−清定親子って悪く描かれている気がする。実際どういう人たちだったかは知らないけどね。
・酒井将監忠尚も城主なのに項目が無い。色々不明。
・三河一向一揆
徳川家康の三大危機のうちの一つ,だって。ピンと来ないけど,凄い戦いだったんだろうね。
・上野七人衆って何だろう。なんか凄そうだ。
城の見取り図もあった。

「諸国古城の絵図」より
諸国古城の絵図は広島藩主七代浅野重[“口”の下に“成”]の時代〔宝暦十三年(一七六七)〜寛正十一年(一七九九)〕に作製されたもので、藩士の方々によって集められ、作図者は不明との事です。元禄年間(一六八八〜一七〇三)藩校修道館が設けられ、さらに天明二年(一七八二)に講学所が設置されており、それら藩校の軍学(山鹿流?)に用いられたものと考えられます。
(藩史事典による)
絵図のほうだけアップで(クリックで拡大)。

「上野城址 開墾記念……」

上郷護国神社が出来たのと,どっちが先かな。開墾→神社建立?
城のことも歴史のことも疎くてダメだな。戦乱の話になると特にダメで,人気の戦国時代も幕末も,関係ないけど三国志も全然わからないのだ。困った。
とりあえず以上。また何か判ったら追記するかもしれない。
・上野城址(上野上村城址)
【住所】愛知県豊田市上郷町藪間付近
【地図】いつもガイド
写真右の「南無阿彌陀佛」が供養塔。

町内の八幡神社の境内に,配津町の史跡マップがあって,“亡霊供養塔”なんて書いてあるから,痛む足を引き摺って行ってみたら,塔というには小さくて,膝の高さくらい。おまけに,ほんの三十分ほど前に通った(しかも信号待ちした)交差点。全然気付かなかった。
案内看板には,以下のように書いてあった。
その昔、この地の庄屋が公金を届けるため、御手洗堤を通った際、それを紛失してしまった。三日三晩探したが出てこなかったので、責任をとって入水した。そののち、火の玉亡霊となって毎夜この道を迷い続けたと言われている。
御手洗堤って,すぐ東の矢作川の堤防辺りかなあ。昔からよく決壊したところらしいので,川の場所は今とは違ったのかもしれない。
上の写真,供養塔でないほうは道標。「南 桝塚 矢作」と読める。
回ってみる。「西 配津 隣松寺」

「北 渡刈 鴛鴨」。多分鴛鴨。読みにくくて。

亡霊供養塔のほうに「念佛講中」とあるのが見える。
「東 中島 天神」。天神の後にもう一文字ある気もする。

南東に岩津天神さんがあるが,そのことだろうか?
亡霊供養塔の側面。「文化……」と読める気がする。

文化なら1804〜1818年だ。約二百年前。
「配津の移り変わりをさぐる」という2003年に出た本(流通番号なし)を,本日図書館で見つけてきたのだが,それによると,
・庄屋さんの名は彦右衛門といい,入水したのは天明年間(1781〜1788)
・上中島(隣村)の竹林院の浄覚法院という方により,千巻供養と墓石の建立が行われ,以後火の玉は出なくなった。
・供養塔の建立は文化元年五月(1804年)
何や竹林院って聞き覚えがあるなあと思ったら,永覚町の秋葉神社のところでも出てきたんだな。現存するのかとか,もう無いなら具体的にどこにあったのかとかは未だに判らない。
亡霊話だけれども,怖いというより悲しくなったなあ。
・亡霊供養塔と道標
【住所】愛知県豊田市配津町蔵前付近
【地図】いつもガイド
上郷コミュニティーセンターの北にある。

クルマ停めて,北側へ抜けたら看板が見えた。
豊田市教育委員会の看板。ここでは「くるまづか」。

古い時代のことは勉強不足でピンと来ないのだが。裁頭型ってのは,頂上が平坦という説明だから,上部(頭)を水平に切り取った(裁断した)形ということだろう。市指定の史跡らしいな,ここ。
こんな感じに木が生い茂っております。

東方600mにあるという三味線塚古墳のほうが,名前的には気になる。今度はそちらへ行ってみようと思う。
・車塚古墳
【住所】愛知県豊田市永覚町車坂47-1
【地図】いつもガイド
中まで入るのは2度目。外だけ通ったのが1回かな。

この建物が資料館。

庭園には,こういう道標がぽつぽつ。(元)本物だよね。

古墳も移築されてきている。

おおー。って毎回覗いてしまう。

移築のときって,石組みとかどうやって記録するんだろうね。記録と再現の過程を拝見したい。
樫尾第一号古墳だそうな。野見町からはるばる。

風の強い日のいいことは,空が綺麗なことだけだな。
じゃーん。鬼瓦。

同じく。さっきのと背中合わせで対。

挙母劇場の鬼瓦だそうだ。

挙母劇場ってどこにあったんだろう。ちょっと前の地図を見ると,コロモ劇場という映画館が駅前にあるけど,それの前身とか?
「猿投」。えー?これも挙母劇場の?

「役」。「水」だと火伏せだけれども「役」は何?

中で目当ての本「豊田市の石造文化財」をゲットしたあと,せっかくなので展示を見る。展示品は撮影禁止との事だが,ロビーのお雛様ならいいですよと言っていただいたので,そっちを。
内裏雛など珍しいものもあった。

一番気に入った御殿飾り。ピンボケてるけど。

右大臣も左大臣も逃亡中(?)だそうな。時代は書いてなかった。
外には梅も咲いてた。

満開。風ニモ負ケズ。

で,今ホクホクしながら買ってきた本を眺めているのだ。燈篭とか石仏とか,写真も所在地の地図も載ってる。順番に回ってみようかな。ああ楽しみ。
・豊田市郷土資料館
【住所】愛知県豊田市陣中町1-21
【地図】Google マップ
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