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「熊野神社」。上の消されている部分は「村社」

鳥居から拝殿。拝殿のアップの写真,撮り忘れた。

この日の歩いて神社巡りも後半で,クタビレ果てていたせいか。
水盤。

阿の狛さん。

吽の狛さん。

大正十三年十月奉納。
拝殿の屋根,向かって右の逆立ち唐獅子。阿。

同じく,吽。

拝殿から本殿。拝殿の懸魚が良い。

自分はこういうのが好きだ。脇には遊具。
拝殿の獅子口んとこに葵の御紋。おおー。

この日,上郷地区をずーっと歩いてて思ったんだけど,なんか岡崎っぽいんだよね,この辺。雰囲気というか,色々。豊田っぽくない。川一本挟んですぐ岡崎だから,そうなのかもしれないけど。
本殿。本殿の屋根にも唐獅子が居るね。

反対側から本殿。屋根に唐獅子。

んー。境内社?

紋があるな。

輪宝紋の類?何か仏教くさい。
由緒だが,境内に説明書きはなし。例によって本から拾う。「豊田市史10」には,幸町屋敷畑1,熊野神社,祭神は素盞鳴命,創建は至徳元年,祭日は10月12日とある。
住所は,もしかしたら変遷があるのかもしれないが,現在では「幸町隣松寺」。「碧海郡神社写真帖」によれば,過去に「上郷村大字隣松寺字屋敷畑」だったことがあるので,混同の可能性もある。この本でも祭神は同じだが,例祭日は十月十三日になっている。
「上郷町誌」では,祭神は素戔嗚命(ちょっと表記が違う),
・浄土宗隣松寺に伝わる書中に“五穀豊熟仏法守護のために紀州熊野大神を勧請し奉る”とある。
・元紀州熊野大神の神主で,穂積氏の苗裔であるところの鈴木氏の一族が古くからこの地方に居住して氏神として尊崇
・境内社4社
日本語のつながりがおかしかったり主語が不明だったりで,うまく読み取れて居ないかも。とりあえず,境内社4社とな!?というところには驚いておく。
例の濃い「上郷風土記」より,抜粋&要約。
・隣松寺の鎮守で,寺領の一角に奉斎。
・明治になって神仏分離令で隣松寺村の氏神という扱いに。
・以下の二点から,祭祀は平安後期頃か。
(1)この地方の熊野神社の創始は,保元の乱に敗れた七郎正持が岡崎箱柳に熊野神社を創祀したことだと寛政譜に載っている。
(2)この地方に熊野神領があった。
まとめてみると,祭神は,どれも(まあ)同じでスサノオ。……熊野大神ってスサノオなの?ええと,熊野大神=熊野権現=熊野三山に祀られる神々で,熊野三山=熊野速玉大社+熊野本宮大社+熊野那智大社。
・熊野速玉大社:【主祭神】熊野速玉大神,熊野夫須美大神
・熊野本宮大社:【主祭神】家都美御子大神
・熊野那智大社:【主祭神】熊野夫須美大神
ケツミコ神の別名がスサノオだとかいう話はどこかで聞いたような?サルタヒコも大概だけど,スサノオも名を変え,姿を変えで手広いからなあ。素人の手には余るだよ。
創建は,至徳元年とすると1384年。これは北朝の年号だから,南朝のになおすと元中元年。「上郷風土記」で根拠に挙げられている保元の乱は1156年。コレに参戦してた人が建てたとすると,広く取っても至徳説より200年は遡るね。
七郎正持って誰?という件。探してみたら,有名なサイトに載ってた。日本の苗字七千傑さんの姓氏類別大観 桓武平氏忠正流のページ。ここによると,平清盛の叔父に右馬助忠正という人が居て,この一族は崇徳上皇方(負けたほう)について六条河原で斬首されちゃうんだけど,乱を避けて三河国道根郷に蟄居していた末男七郎正持は生き延びて(これだと敗走じゃなくて最初から戦に参加してなかったみたい),三河の中根氏の祖となり,子孫は清康(家康の祖父)以降,松平(徳川)氏に仕えて幕臣ともなったということである。色々繋がってて面白いねえ。
熊野神領の件は時代は判らないけれども,こんなページを見つけた(播磨屋.comさんのデータにはお世話になりっぱなし)。穂積鈴木氏は饒速日命の後裔を名乗っているそうだ。ニギハヤヒといえば物部氏!……とか独りで興奮しても仕方がないのだが。
屋根にあった三つ葉葵の紋の件。元々鎮守していた隣松寺に,家康の両親が日参して授かったのが竹千代(家康)だそうな。だから徳川(松平)家とは縁が深いのだな。両親って,松平広忠と於大の方ね。大河ドラマ見てたんだけどなー(滝田栄の)。父親の名前は忘れとったなー。
あとわかんないのは境内社の件だね。4社ってどこに?(まとめてあの小さい社殿の中?)とか構成は?とか。どこかに記録がないかなあ。
・熊野神社
【住所】愛知県豊田市幸町隣松寺44
【地図】いつもガイド
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