ひねもすのたり宮
史料の覚え書と神社巡り記録。雑記。
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隣松寺の稲荷社
豊田市幸町の隣松寺。地名にもなっている。

通りすがったら,中に稲荷社があると看板に書いてあったので,本堂へはご挨拶せず,稲荷社だけ参って帰るという非道。そもそもお寺の参り方が判らない。神社より敷居が高い。勝手に入ってよかったのか,とか。

仁王門。
隣松寺の稲荷社1(070328豊田市)


「浄土宗 隣松寺」
隣松寺の稲荷社2(070328豊田市)


阿の仁王さん。
隣松寺の稲荷社3(070328豊田市)


吽の仁王さん。
隣松寺の稲荷社4(070328豊田市)


仁王門の手前にあった豊田市教育委員会の看板。
隣松寺の稲荷社5(070328豊田市)

内容は以下。
隣松寺
 当稲荷山隣松寺は、人皇五十三代淳和天皇第三皇子東山親王国長公当地に配流承和十年薨去、隣松院殿一位相国大居士と号し、従兄弟仁明天皇、追善の為に当山を草建されたと伝う。当初は、天台宗、明徳年間明浄土宗に改宗され、現在に至る。徳川氏との関係は深かった。

 寺宝(豊田市文化財)
一、徳川家康公安緒状、徳川将軍朱印状
一、徳川家康公木像、甲冑三尊像各一体
一、雲版一面、華曼十面
一、善導大師筆、観音曼荼羅一軸

                 豊田市教育委員会

仁明天皇の在位は833~850年。おお,これは古い。

・“淳和天皇第三皇子東山親王国長公”とあるが,淳和帝の皇子に東山という名は見当たらない(呼び名が様々あったかもしれないが)。
・Wikipediaの淳和天皇の項,息子女の欄で薨去の年が近いのは,829~842とある恒統親王だが。
・逆に "東山親王" でGoogle検索すると,隣松寺の記事か,雛人形のページしか出てこない。

「東山親王」は,隣松寺の伝のみに現れる名かもしれない。ただ,ここで存在を疑えとかそういうことではない。

例えば,「上郷風土記」によると,亡くなった時,天野川右大臣(この人も誰かよくわからん)が,勅使として隣松院殿の院号を贈りに来た,ここから隣松寺の名となり,その後は皇室と親交が多く,任明,宇多,村上,後一条,鳥羽各帝の勅願文などが残っているとのことである。

配流の理由も悪事ではなさそうだ。亡くなった時/後に,カワイソウかゴメンネの気持ちでなければ,その後の皇室の行動が理解できないからだ。この時代,~の変がやたらあるからな。どろどろの皇位継承話とかな。

寺宝の一部の写真は,上郷コミュニティーセンターのサイト内にあるこちらのページで見ることができる。

門を入って右手に,目的の稲荷社があった。
隣松寺の稲荷社6(070328豊田市)

やたら新しい。

葵の御紋つき水盤。
隣松寺の稲荷社7(070328豊田市)


口に珠,手に珠の狐さん。
隣松寺の稲荷社8(070328豊田市)


口に巻物,手に子狐の狐さん。
隣松寺の稲荷社9(070328豊田市)


額には「稲荷堂」。稲荷堂が正しいような気もする。
隣松寺の稲荷社10(070328豊田市)


入口の看板には「稲荷社」ってあったのに……。
隣松寺の稲荷社11(070328豊田市)

看板の内容。
徳川ゆかりの稲荷社

 隣松寺の稲荷社は安産祈願の由緒ある社として、近在近郷の人たちの信仰を得ていました。
 特に、松平広忠の祈願により、竹千代(後の家康)が生まれ、その家康が三河一向一揆のとき、この稲荷社に戦勝祈願をし、相手方上野城主に勝ったと言われています。
 近年、東京本郷に「三河稲荷社」として末社の存在が判明しました。
                 (隣松寺)

家康誕生のときの祈願話って鳳来山東照宮でも見たんだが。風邪引いたからって,民間療法も医薬品もおまじないも色々試したら,治ったはいいけどどれのお蔭か不明,みたいなもんだろうか。お願いにあがった先の神仏は,生まれりゃあみんなご利益アリ判定ということで。

あと,戦勝祈願された稲荷さんも珍しいような気がするんだけど,どうかな。

稲荷堂の横にあった石碑。「隣松寺稲荷社由緒」。
隣松寺の稲荷社12(070328豊田市)

稲荷社か稲荷堂か統一して欲しいと思うのはわがままか。
隣松寺稲荷社由緒
 当山稲荷社は仁治元(一二四〇)年、鎮応和尚(当山住職)が京都伏見より勧請したと伝えられ、以来、五穀豊穣、開運、安産祈願の由緒ある社として近在近郷からの信仰を得てまいりました。
 殊に岡崎城主松平広忠公は、竹千代(後の徳川家康公)誕生にあたり成長の無事を祈願されたと伝えられます。
 家康公は、永禄六(一五三六)年、三河一向一揆の際、この稲荷社に戦勝祈願をし、上野上村城(酒井将監忠尚)を攻め勝利しました。家康公はその霊験に感じ入り、寺の山号「玉松山」を「稲荷山」に改め、自身の甲冑姿の木像と念持仏を奉納されるとともに朱印地三十石を寄進されました。また、江戸開府の折りには、当稲荷社の分社を吹上に造営奉遷され(三河稲荷神社)、これは稲荷信仰が江戸に広まった基となったと言われております。明治元(一八六八)年、「廃仏毀釈・神仏分離令」が発布され、以来活動を停止し、社殿は参道を背にしておりましたが、平成の再建にあたり旧姿に復することに致しました。
          平成十六年二月 二十九世 誠誉

さっきの看板とは,ちょっと違う書き方をしてある。「誕生にあたり成長の無事を祈願」なので,生まれてから来たような印象だ。

伊勢屋 稲荷に犬の糞”の大元がこことはねえ(失礼ながら)。三河の出の人が天下を取ったわけだから,充分あり得る話だけど,実際聞くと凄いねえ。三河稲荷神社の公式?サイトはこちら。今年で400年ってことは,1607年の奉遷だから,江戸幕府が開かれてすぐだ。

「上郷風土記」に気になる記述があった。
仁明天皇(人皇第五十四代)の代弘法大師一刀三禮の神像(叱枳尼天)を万民豊楽五穀成就の為、洛陽より移し隣松寺鎮守稲荷山に奉納す。
上のように,“当時の伝記”(具体名不明)に書いてあるというのだ。稲荷山の出所が何か違う。弘法大師?ダキニ天?

他にも,住職は代々勅命で定められたとか,境内が八百六十間四方あったとか書かれている。だいたい1間を6尺とすると(明治以前は時代と地域で違う),少なめに見て約1.5キロ四方である。でかっ。

ところで,ご本尊のことがどこにも書かれていない。浄土宗なら阿弥陀仏に決まっとる!……んだっけ?それにしてもね。

鬼瓦が居たよ。
隣松寺の稲荷社13(070328豊田市)


・隣松寺の稲荷社
【住所】愛知県豊田市幸町隣松寺126
【地図】いつもガイド
■関連■
 ★訪問神社リスト【豊田市・上郷地区】

テーマ:神社仏閣 - ジャンル:学問・文化・芸術

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